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恩師のことばに支えられて

  • 史学科

川瀬 美保 Miho Kawase

1988年度卒業

高校時代、当時まださほど注目されていなかったハプスブルク帝国について学びたいと思うようになりました。高校の進路指導の先生から、「聖心であれば学生の学びたいことを優先させてくれるので、専攻に関する許容の枠が広いのではないか」と勧められたのが聖心女子大学を志望した理由です。

記憶の小箱と左手首の脈――心に刻んだ恩師の言葉たち

学生時代は本当に講義、特に史学全般の授業が楽しみで仕方ありませんでした。大学院ではそこに研鑽の側面も加わるため、決して楽ではない時期もありましたが。

広尾のキャンパスで過ごした日々を思い出そうとすると、学部、大学院時代ともに、常勤、非常勤の先生方の後を追いかけ、ご助言やお話をうかがえる機会をうかがっていた自分の姿ばかりが浮かんできます。(こうして書くと少々大げさに聞こえるかもしれませんが、もちろん節度は保っていました(笑))。
その甲斐あってか、講義室の外でも、本当に多くの言葉を頂戴することができました。それらは今でも、私の心の支えであり、思考の土台となっています。

例えば、「真摯に過去からの声に耳を傾けなさい」、「俯瞰ではなく、自分がその時代の大地に立ちなさい」、「頑張って真ん中に立とうとしなさい」、「己の弱さを晒すことを決して恥と思わないように」等々。その都度、それらの言葉を頭と心にしっかりと刻みました。
その後の人生の中で、何かあるたびに、記憶の小箱からそれらの言葉を取り出しては咀嚼し、じっくりと意味を味わってきました。そうやって生きてきた結果が、今の私です。これは大げさではなく、本当にそう思っています。先生方の言葉に、よい意味で導かれてきた半生だったと思っています。おそらく、これからもそうなのでしょう。
そうした先生方の教えを、次の世代に伝えたい――その思いは、ずっと変わらず持ち続けてきました。そのような教えの数々が、自身の「成長」というより、人格形成の手段そのものでした。

私はなぜか、先生方のお顔やお声を思い出す時、決まって脈を計るように左手首に指を当てる癖があります。大学院を出た後、26年間大学で非常勤講師として教えていた間も、小説を書いている時も、頻繁に左手首に触れていました。
学部4年生の頃に、その奇妙な癖に自分で気づいたのですが、おそらく、その頃に学問の世界と、極細ではあっても初めて繋がったのでしょう。
それは、自分の中にほんの少しでも、先生方の「教えという血」が流れていることを確かめたいという思いに通じているのかもしれません。
「左手首の脈」――それが学び舎で得た、自分らしく強く生きていくための、私にとって最高の「武器」になっています。

そしてもう一つ、大学院時代に得た学友、「同志」も私の宝です。大学院を出た後、今に至るまでずっと、すぐに緩みがちな私に「喝」を入れてくれるのは、その同志の役目になっています。

わたしのなかの「聖心らしさ」

私は、社会に出てから、「君は、聖心らしくない」という言葉を(とりわけ聖心のことをよくご存じない方々から)これまでたびたび頂戴してきました(笑)。ですが、その言葉を聞くたびに、こう心の中で言い返していました。
「大学が選んだ先生方の教えを、これほどまでに素直に、まじめに受け取り、実践しようとしている人間が『らしくない』」と言われるなら、それはそれで、愉快だ」と。
少し冗談めいた言い方になりましたが、私の中に「らしさ」があるとしたら、それは、先ほども書いたように、先生方からの教えを守り続け、「若者たち」に伝えていきたい、と思う気持ちかもしれません。

史学の領域だけでなく、聖書学を通じて故シスター森村と出会い、いち個人としてのシスターから学んだことも、知らず知らずのうちに私の中に生まれていた「聖心らしさ」かもしれません。シスター森村の教えを通じて、私はカトリックに興味をもち、共感し、学びました。しかしやがてそれを拒絶するようになり、大学院では「反カトリック」とも捉えられる論文を書きました。それでもシスターは、そのような私の「転向」を、嫌な顔一つせず受け入れてくださいました。竞彩篮球推荐室に伺うたびに、たいていは世間話でしたが、シスターは話の中で必ずおっしゃいました。「今日も、自分と、自分以外の誰かのために生きましょう」、と。いつの日か私は、そのお言葉の前に、勝手に「自分を幸せにするためにも」と置いていました。私なりの、普遍的でシンプルな「幸福論」が私の頭の中で完成したのです。私は弱い人間ですから、そんな自分本位な幸福論すら実践できないことが多いのですが、それでも思い出しては、よく声に出して言ってみます。「自分の幸せのためにも、自分以外の誰かのために生きよう」と。シスター森村との師弟関係があったからこその気づきですから、これもまた「聖心らしさ」と言えるのかもしれません。

アガサ?クリスティー賞を受賞し、作家として本格デビュー

作家っていいなぁ、と最初に思ったのは、修士論文を書き終えた頃です。竞彩篮球推荐室で仲間たちの話を聞いていると、日本史、オリエント史、ヨーロッパ諸国史(アメリカ史も含む)、どれも興味深く、面白くて仕方ありませんでした。歴史ってこんなに面白いのに……なぜ日本では学生の歴史離れが進むのかな? 塩野七海さんや佐藤賢一さんのように、歴史を面白い、極上の読み物として広めることができる人がもっと増えればいいのに……などと思った延長の、まだ夢にもなっていないようなぼんやりとした思いでした。書き始めた、というレベルではありませんが、最初にフィクションの歴史的人物を紙の上に残したのは、その頃です。

それから十年以上が経って――もともと海外ミステリが大好きだったのですが、その頃、大ファンだった英国のミステリ作家が相次いで他界し、シリーズの続きが読めなくなり、本気で落ち込んでいました。とりわけ、レジナルド?ヒルという英国ミステリ界の大御所の『ダルジール警視シリーズ』は、今でいう「推し」で、亡くなったと知った時には絶望的な気持ちになりました。そこで、何を血迷ったのか、「もう、自分が会いたい捜査官は自分で作るしかない!」と思ってしまい、ダルジールのような捜査官を生み出すための長い旅が始まりました。
ヒルが亡くなったのが2012年ですから、今回アガサ?クリスティー賞をいただいた『ボスポラス 死者たちの海峡』の主人公オヌール警部と、彼の二人の仲間が誕生するまで、十三年かかったことになります。その間、たくさんの刑事や探偵たち(ほとんどがオーストリア人か、ハプスブルク帝国の人間でした)を作っては捨ててきました。

イスタンブールを舞台にしたのは、夫の仕事の都合で一年半ほど滞在した時の経験からです。『ボスポラス海峡トンネル(マルマライ)プロジェクト』に参加した夫たち日本人とトルコ人スタッフたちとの間に、真の、深く固い友情と信頼関係が作られていく過程を間近で見ることができました。本当に美しい光景でした。国籍を越えたそのような友情を、ミステリの形で書き残したいと思ったのです。

そして私自身は、「あなたのご主人はトルコのために懸命に働いてくれている。だからあなたのことは我々が守る」と言ってくれた隣人たちに、本当に守られ、支えられて、無事に、幸せに生き抜くことができました。彼らへの感謝の気持ちが、作品の命となったのだと思います。

受賞の知らせを受けた瞬間は、文字通り、腰が抜けました(人生で初めての体験でした)。それほど受賞の壁は高く、おそらく一生越えられないものだと思っていました。
実は、アガサ?クリスティー賞の主催社である早川書房さんは、アガサ?クリスティーに始まり、レジナルド?ヒルやP?D?ジェイムズ、コリン?デクスターといった、私が敬愛する作家たちの翻訳本を出し続けてくれた、子供のころからの憧れの出版社なのです。こちらもまた、私の強烈な「推し」でした。
そんな一方通行の片思いが相思相愛に変わるはずもないのに、応募条件(枚数など)を考えると、そこしかない――というジレンマを抱えての挑戦でしたから、受賞はやはり夢のような出来事でした。
ただ、酔うような幸福感を味わったのはほんの一瞬で、すぐに重圧と大きな責任感にその場を譲りました。今もそのまま、責任を両肩にずっしりと感じています。

不変の情熱、その結実の瞬間

私の恩師、故菊地昌典先生(卒業論文の指導教員)が『ロシア現代史』の授業でおっしゃっていた言葉を――何十年ものあいだ繰り返し思い出しているうちに、私自身の表現も少し混ざってしまっているかもしれませんが、ほぼそのままお伝えしたいと思います。
「誰もがもっている、若さゆえの情熱。それは、大きな岩をも砕く力をもっています。その力で、どんな困難でも砕いてみせなさい。そして、その若さ――情熱さえ失わなければ、人はいつまでも若いままでいられるのです」。
受賞の知らせを受けた時、私が真っ先に報告したのは、天上の菊地先生でした。「随分長くかかってしまいましたが、巨大な岩、ついに砕きました」と。

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川瀬 美保 Miho Kawase
1988年度卒業

作家 
『ボスポラス 死者たちの海峡』で第15回アガサ?クリスティー賞を受賞

※記事及び肩書等は、2026年3月のものです

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